読書93 神を哲学した中世
神を哲学した中世 新潮選書
八木雄二
中世における神学は、世界の原理は神であることを根本にしている。つまり現代の宇宙物理学や素粒子論と同じ位置づけです。この時代は実験ができないので、論理の限りを尽くしたのが神学です。神の存在証明はヒッグス粒子の発見と同じでした。
そこから商業、相続、取得時効などの考え方がこの時代にすでに確立している。
取得時効では保護すべき個人と社会の利益を考慮し、不義密通の子の相続権は関係者の利害のバランスで倫理的に決定し、修道士という受け皿もあった。
金儲けの正当性も社会への還元を現実的に考えて確立していった。
理性とは客観的であるというのが日本人の感覚。
しかしヨーロッパでは個人の自我・感情こそが理性なのですね。
理性的な人とは、たしかな主観を持つ人なのだそうです。
これを理解しないとヨーロッパの宗教、文化は理解できないのでしょう。
P155
日本人は仏教の影響からか、理性的であることは客観的であることだから、理性には主観性がない、よってそれは自我(主観)から離れた状態である、と連想をはたらかせてしまう。日本人にとっては、「自我」はむしろ「感覚的で身体的」である。
他方、ヨーロッパでは、個人の自我は感覚ではなく理性なので、理性的であることは「自我から離れる」ことではない。むしろ身体性や感覚には、ヨーロッパは人間本来の「自我」を認めない。人間本来の自我は、あくまでもその人の理性なのである。したがってヨーロッパで理性的であると言われるのは、むしろ「真の自我」であり、「たしかな主観をもつ」ことであって、主観から離れることではない。