読書95 日本仏教史
日本の仏教を学問として捉えるのはムリなのですね。仏教史という歴史として扱うことはできても、教学を体系化できない。それほどに融通無碍なのが、日本の仏教。
だから聖書学のような神学は存在しない。神がいないのだから神学がないのは当然ですが、そういう意味ではなく、学問として捉えようとすると、柳田国男の民俗学になってしまうのです。民衆の生活習俗そのものが日本の仏教です。
P105
最澄の意図する仏教者は、まさに「国宝」として世俗社会のなかで役立つものでなければならなかった。それゆえ、出家者も在家者も同一の戒による「真俗一貫」の立場が積極的に主張されている。そこには、法華一乗の普遍主義・平等主義と同じ理念がみてとれる。この立場がやがて、世俗のなかに積極的に入っていこうとする新鎌倉仏教の運動に連なっていくと思われる。しかし、同時に他面、出家者としての戒律・修行が軽視されるという問題点を日本の仏教史に残すことにもなったのである。
P159
つまらないもの、価値のないものと思われていたわれわれの日常全てが悟りであり、仏の現れであるとしたら、なんと素晴らしいことであろうか。目にする一草一木、耳にする鳥や虫の声、すべて仏ではないものはない。ありのまま、自然のままを尊ぶこうした考え方は日本人好みのようであり、本覚思想は仏教の枠を超えて、中世の文学・美術・芸能から神道の思想にまでおよぶ広範囲の影響をおよぼすことになる。
しかし他方、修行は不要、凡夫は凡夫のままでよい、ということになると、きわめて安易な現実肯定に陥り、危険な思想といわなければならない。
P236
だが、一概に葬式仏教を悪いと決めつけるわけにもいかない。今日の日本では、一般に誕生や結婚など生と結びついたおめでたいことは神道で、それに対して死と結びついたことは仏教でという分業体制が確立され、それによって両宗教の平和共存が成り立っているということもできる。そこにはもともと穢れを忌むという日本人の感覚があり、それを外来の宗教にまかせることによって、安定した生活構造を確立したとも考えられる。
P344
とくに民衆の中に根ざした風俗習慣の研究を主とするのは民俗学という学問です。日本の民俗学はもともと柳田国男によって創設されましたが、彼は仏教以前の日本人の生活を明らかにすることを目指したため、仏教に関する民族の研究は遅れました。それがある程度の成果をみるようになるのは、戦後になってからのことです。このように若い学問ですが、今後この方面からの研究が進められることが大いに望まれます。