読書89 禁忌の聖書学

 禁忌の聖書学
 山本七平

 税法の素人が法人税法の解説書を読んだようなものなので10分の1も理解できませんでしたが。

 日本人なら誰でも子どもの頃、古事記日本書紀の神話を絵本で読んでいるように、西欧では聖書のストーリを読み聞かされながら育つ。

 いや、それ以上なのでしょう。なにしろ中世以前の人たちにとっては世界を科学的に理解する手段が聖書でした。昔は実験や観測ができないため、言葉による論理だけが宇宙を理解する手段です。その言葉こそが聖書。その意味では科学も聖書からの派生でしかない。

 裏切り者ヨセフスの役割
 少数民族であるユダヤ人がヘブライ語で書いた書物などローマ人が読むはずもない時代。ユダヤ人の宗教をヘレニズム世界に広めたのがヨセフス。聖書のギリシャ語訳(七十人訳聖書)とパウロの伝道を広めたのはヨセフスなくしてはあり得なかった。裏切り者の汚名を晴らすための必死の執筆活動が結果として旧約聖書を全世界に広めることに繋がった。ユダヤ古代誌、ユダヤ戦記です。

 マリアは処女で聖母か
 P113
 確かにマリアは、ユダヤ教徒にとっては「姦夫・娼婦」、キリスト教徒にとっては「聖母」であり、その懸隔は埋めがたいが、「聖母にして娼婦」という女性がいても不思議ではあるまい。ただ、マリアはその極限で、「処女にして神の母にしてかつ私生児の母」なのである。(略)アジアの文学で、少々寂しい気がするのはこのように極限的な「聖母にして娼婦」というモチーフがないことである。と同時に西欧の宗教・文学・芸術からこれを除いてしまったら、実に索漠としたものになることは疑いえない。

 「ヨセフ」物語は最古の小説
 P175
 「ヨセフ物語」は果たして宗教文学であろうか。これは定義の問題になるが、主人公ヨセフは、どう見ても世のいわゆる「信心深い人間」には描かれていない。空井戸に投げ込まれても牢獄に叩き込まれても、彼がひたすら神に祈ったとは書かれていない。この物語の背後に宗教性があるとすれば、それは「見えざる神の手」への信仰といったものである。各人は勝手に自らの感情や欲望の命ずるがままのことをしており、簡単にいえば私利私欲のまま行動している。この点では、ヤコブもその兄弟達も基本的には変わりあるまい。だがそう動いていることが、まるで「市場原理の鉄則」のように神の摂理通りになっていくという進行であろう。

 結末なきヨブの嘆き
 P242
 結局、凡人は応報思想から抜け出せないのであろうか。この最も安直な考え方、お祭りの見せ物の呼び込みの台詞に等しい思想は、すべての思想も宗教も殺してしまう。

 P243
 『ヨブ記』は結局、断ち切られたように終わる以外に、結末はあり得ない。